ブルカルト・ボーフェンジーペン氏を偲んで
※当文書は2023年10月19日にドイツ・ブッフローエにて発表された英語版ステイトメントの翻訳です。ステイトメントの正式言語は独語および英語であり、その内容および解釈については独語版および英語版が優先されます。
ボーフェンジーペン家およびALPINA従業員は、創業者でありBMW ALPINA車を世に生み出したブルカルト・ボーフェンジーペンが2023年10月12日、87歳の生涯を閉じたことに深い哀悼の意を表します。
ブルカルト・ボーフェンジーペンは、1936年9月1日にケムニッツ(Chemnitz)で生を受けました。そして幼い頃から自動車に強い情熱を持っていたといいます。高校卒業後、工具職人としての見習い期間を経て、ミュンヘン工科大学に進学。機械工学を学び、後に経営学に転向いたしました。
60年代初頭、ブルカルト・ボーフェンジーペンは、さまざまな自動車ブランドのために、パフォーマンスを向上させるキャブレターとインテーク・システムを開発するというアイデアを実行に移します。そのための最適なモデルが、4気筒エンジンを搭載した当時最先端のBMW 1500であり、エンジンルームにはパフォーマンスアップのためのスペースが十二分にあることがわかりました。そして1963年、アルピナ初の製品となったBMW 1500用キャブレターとインテークシステムの開発が完了し、最初の市販車が路上に出たのです。これはドイツの「auto motor und sport」誌によるテストが行われ、絶賛とともに世の評価を得たのです。
同年9月にはフランクフルトで国際モーターショーが開催されました。若き起業家は自分のブースを持つ余裕はありませんでした。その代わり、彼はデュアルキャブレター・インテーク・システムを説明したパンフレットを駐車場で見かけたすべてのBMW 1500のワイパーの下に挟み込みました。この巧みなマーケティングによって、最初の100台分のキャブレターキットは完売となったのです。
朗報は、ミュンヘンからも届きました。BMWが、カスタマーサービスの通達として、このパフォーマンスキットはエンジンの信頼性に悪影響はなく、よってBMWとしての製品保証はキット装着後も有効であると表明したのです。これは実質的にBMW役員会からのお墨付きといえるものでした。
ブルカルトは、ALPINAというブランド名を父親が経営するタイプライター工場から採りました。アルプス山脈に因み、かつ国際的に通用する響きを持っていたからです。ALPINAという名を世界に知らしめるため、1960年代後半にはモータースポーツに参戦します。ブルカルトの考えでは、モータースポーツは競争力と技術をもっとも発揮できるまたとない舞台でした。1968年以降、デレック・ベル(Derek Bell)、ジェームス・ハント(James Hunt)、ジャッキー・イクス(Jacky Ickx)、ニキ・ラウダ(Niki Lauda)、ハンス・シュトゥック(Hans Stuck)、そしてディーター・クエスター(Dieter Quester)といった錚々たるレーシングドライバーがALPINAの一員となりました。多くのドイツ国内チャンピオンとスパ・フランコルシャン24時間レースの優勝のほか、ALPINAとBMWは1970年、1973年、1977年にヨーロッパ・ツーリングカー選手権でも優勝を果たしています。この時、ブルカルトはパドックにケータリングを取り入れました。そして彼が焼くステーキもまた伝説となったのです。
1978年、南チロル(オーストリア)で開催されたプレゼンテーションで、ALPINAは3つの完全な自社開発モデルを発表いたしました。BMW 3シリーズに200psの2.8リッター直列6気筒エンジンを搭載したBMW ALPINA B6 2.8、BMW 5シリーズをベースとし、当時世界最速のセダンとなったBMW ALPINA B7 Turbo、そして300psを発揮する世界でもっともパワフルなスポーツクーペの一員となったBMW ALPINA B7 Turbo Coupéです。これら印象的なモデルたちが、チューナーから卓越した自動車を作るマニュファクチャラーとしての今に続く道を切り拓いたといえるでしょう。
ブルカルト・ボーフェンジーペンは、自らの仕事のほかに、政治、経済など、自分に関係する問題に深い情熱を傾けていました。彼は遠慮することなく、また、まっすぐに向き合いました。1985年、ドイツで森林の枯死とアウトバーンの速度制限をめぐる議論が巻き起こったとき、ブルカルト・ボーフェンジーペンはこれを挑戦として受け止めました。それまで市販車には採用されてなかった排圧が低く、排ガス浄化効率の高いをメタルキャタライザーを初めて導入したのです。ボーフェンジーペンは、「拝啓、連邦政府殿。交通政策1985について」と題した意見広告を全国紙に掲載する大々的な広告キャンペーンを行いました。彼のメッセージは「法律や規制で環境問題に取り組むべきでない。最新のテクノロジーを駆使して、ここ、ドイツで世界一クリーンな自動車を作ろう」というものでした。
ブルカルトはイタリア、フランス、そしてスペインのヨーロッパ・ツーリングカー選手権の会場を訪れるうちに、自身のいうところの“ちゃんとした”ワインを愛するようになりました。ヨーロッパ各地から持ち帰ったワインが彼のプライベート・ワインセラーのキャパシティをはるかに超えていることに気づいたとき、彼の情熱を傾けるべき第二のビジネスとして有名産地の高級ワインを提供するアルピナ・ワイン・ビジネスを始めました。
品質へのこだわり、忍耐強さ、そして卓越した交渉力のおかげで、彼はアンティノリ・スーパータスカン(Antinori Supertuscan)、1975年ティニャネロ(Tignanello)の独占輸入権を畑から直接獲得することに成功しました。しかし、この時の契約にはひとつの条件がありました。サッシカイア(Sassicaia)という小さなワイナリーからもワインを購入すること、という付帯条件です。今日では、このワインはイタリアで最も有名なワインとなり、アルピナを代表するワインのひとつにもなりました。ワイン事業は現在、ドイツ全土の約1,000の高級レストランやホテルに供給されています。
野心的で成功した起業家としてのブルカルト・ボーフェンジーペンのマイルストーンは以下の通りです。
・1964年 BMW 1500用ウェーバー・デュアルキャブレター・システムを開発
・1965年 ALPINA Burkard Bovensiepen KGを設立
・1970、1973、1977年 欧州ツーリングカー選手権で優勝
・1971年 ライトウェイト・クーペBMW3.0 CSLのプロジェクト・マネジメントを担当
・1979年 アルピナワイン事業の設立
・1980年 販売網を海外に拡大、日本での販売開始
・1983年 連邦自動車交通局に自動車製造業者として登録
・1989年 BMW ALPINA B10 Bi-Turbo(当時世界最速のセダン)を発表
・1993年 ALPINA SWITCH-TRONIC、ステアリング・ホイールのボタンでオートマチック・トランスミッションをマニュアル・シフト可能に
・1995年 BMW ALPINA B8 4.6発表 – V8エンジンを搭載した初のBMW 3シリーズ
・1995年 SUPERKAT – ALPINA、世界で初めて加熱式触媒コンバーターを標準装備した BMW ALPINA B12 5.7 E-KAT発売
・1999年 ALPINA初のディーゼル・エンジン、BMW ALPINA D10 Bi-Turboを発表
・2003年 BMWとのコラボレーションによるBMW ALPINA ROADSTER V8でアメリカ市場に参入
・2004年 機械駆動式ラジアル・コンプレッサーを採用したスーパーチャージド・エンジンを搭載したBMW ALPINA B7を発表
・2007年 世界で初めて1,000台以上の自動車を納車
・2008年 5つのエンジン・テストベッドと排ガス試験用シャシダイナモを備えたR&Dセンターを新設
・2011年 ドイツGT3選手権、ADAC GTマスターズで優勝
・2015年 ALPINA50周年を迎える
・2019年 ALPINAワイン40周年を迎える
・2021年 世界で初めて2,000台以上の自動車を納車
2002年からは、ブルカルトの2人の子供のアンドレアス・ボーフェンジーペン(Andreas Bovensiepen)とフローリアン・ボーフェンジーペン(Florian Bovensiepen)が、アルピナに参画し父親と共同で会社を経営するようになりました。ブルカルトはそれ以降、ワインビジネスに彼の経営的な時間を割くようになりました。
ブルカルト・ボーフェンジーペンは、ビジョナリーであり、完璧主義者であり、明確なアイデアを持った人でした。アイデアが思い浮かぶと、自らのビジョンと期待に100%合致するまで飽くなき追求を怠らない人でした。BMW ALPINAとALPINAブランドが世界的に超一流の評価を得ているのは、まさに彼のライフワークのおかげです。こんにち納車されるすべてのBMW ALPINA車には、いまもなお彼の精神が息づいています。
2023年10月、ブッフローエ
日本語版追記
Nicole Racing Japanおよび独ALPINA正規輸入代理店Nicole Automobiles代表職務執行者社長ミヒャエル ヴィットはブルカルト・ボーフェンジーペン氏の逝去にあたり、以下のようにコメントしています。
「日本とブルカルト・ボーフェンジーペン氏は、ニコル・グループの元で45年以上にわたる極めて緊密なパートナーシップと成功裏の協力関係で結ばれています。彼のビジョンと情熱が、今日のBMW ALPINA---クラフトマンシップ、パフォーマンス、卓越性、ドライビングプレジャーの象徴---を作り上げました。また、ボーフェンジーペン氏にとって、日本は常に関心を払うべき特別な市場でした。彼の遺志は、彼を知ることのできた人々の心の中に、そしてもちろん、これまでBMW ALPINAが生み出した傑作の一つひとつの中に生き続けることでしょう。
この大変悲しい状況に、私たちは深い哀悼の意を表し、心からお悔やみ申し上げます。私たちの気持ちは、ボーフェンジーペン氏のご家族の皆様、そしてドイツ・ブッフローエにあるALPINAの全メンバーと共にあります。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」